“幼さ”の正体:価値観の押し付けから見えてきたもの

 先日、大学院時代の同期と話していて、「幼いとはなんだろう?」という質問をしたところ、間髪入れず

幼い人とは、自分の価値観を押し付ける人

という明瞭な回答が返ってきました。この答えはすぐに腑に落ち、幼い高校生、幼い社会人、幼い上司、幼い部下、幼い親、どの視点で考えても私には非常にフィットしました。そして「自分の価値観を押し通そうとする人」も、やはり「幼い」のだろうと考えました。

自分の「幼さ」

 自分の経験を振り返ると、まぁいつまでも幼かったなと思います。妻もよく結婚してくれたなと😅なんだかんだ振り返って、自分でもまともになってきた(幼さが抜けてきた)のは、子供が生まれてからだと思います。

学生時代(23歳まで)

自分の価値観を明らかに押し付け、異なる意見に納得できませんでした。授業でディベートをするときも、自分の価値観と違う立場に立つことが苦手で仕方ありませんでした。

JR東日本在社時代(27歳まで)

自分の考えで相手を論破しようとする傾向がありました。ディベート経験から受容する意識はあったものの、それはあくまでテクニック的なものに過ぎませんでした。

風土改革コンサルティング会社在社時代(29歳まで)

仕事柄、相手の意見を聞く力は身についたと思います。しかし今思えば、自分の考えと合わないと不安になったり、ソワソワしたりしていました。「相手の価値観で物事を進めて大丈夫なのか」という不安を常に抱えていたのです。言い換えれば、自分の考えは完璧だと無意識に思っていたのでしょう。まだまだ「押し付け」から脱却できていませんでした。

起業後

ビジネスにおいても、自分の価値観を押し通すことが通用しない場面が増え、起業から1年後に子どもを持つことでさらにその実感が強まりました。周囲の価値観、つまり、付き合わないといけない、自分とは異なる価値観が自然と増えていく中で、ある種の「諦め」を持つようになり、15年くらいかけて相手の価値観を軸にしながら自分の価値観を「添える」ということができるようになったと思います。譲るのではなく、「添える」という感じです。譲るというと、捨てる感じもありますが、そうではなく、横に常に置いておくような感じです。相手さんがそのように思ってくださっているかはわかりませんが、自分自身の過去と比較するとそのようになってきたと思っています。

 JR東日本から風土改革コンサルティング会社に転職しようと思ったのも、当然、そちらを生業にしたいという思いからではありますが、今思えば無意識に自分の「幼さ」を打破しようとする意識が根底にあったのかもしれません。すなわち、幼い自分が他者の価値観の受容できなさをなんとなく感じていたため、何か感じていたのだろうと思います。

 学生時代、親に繰り返し「あんた、色々と言ってもらえるうちが華よ。」と言われましたが、まさにこれが意味するところでしょう。「この人は、人の考えや価値観を受け入れないんだな」と周囲が感じると、年を重ねれば重ねるほど、次第に声をかけてくれなくなります。そして、年を重ねれば人は変わらない、完成されたものだと思われがちなので、なおさら孤立しやすくなるのではないでしょうか。

 最近は若手相手にハラスメントを気にして、上長が部下に指摘することが減ってきました。少なくとも、私が若手だったときよりはハッキリと減っています。曖昧なことはできるだけ指摘しないようにしているように思うので。

 誤解を恐れずにいえば、すぐに「ハラスメントだ!」と言いそうだなと思われる人ほど、孤立していくのが早いように思います。さらに誤解を恐れずに言えば、何でもハラスメントで片づけようとする人ほど、「幼い」可能性が高いと思っています。

 自分の軸を持つことと、価値観を押し付けないこと、押し通さないようにすること。これらを自然にバランス良く行える状態こそが、真の意味での成熟なのだと思っています。もう少し具体的にすると、他者の価値観に耳を傾け、尊重しながら、自分の考えも大切にする。それが「幼さ」から抜け出す道筋なのだろうと考えるようになりました。

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